雪ふりましたね。今日は立春だっていうのに、朝から昨日の雪が凍ってなんども滑りそうになって、駅に着くまでにいつもの倍かかってしまいました。受験シーズンでみんな無事に試験をうけられたかしらって心配になっちゃいました。冬になると、足もとの石畳が凍ってもっと大変だろうなって思える国、ルーマニア、オーストリアが舞台の作品、「ドナウよ、静かに流れよ」です。久しぶりに大崎善生の小説を読もうかと思って開いてみたら実在の人や場所がいっぱいでてくるものだから、いつになったら物語が始まるのかしらって心配になって帯をみたら、ノンフィクションって書いてあって、一瞬止まってしまいました。小説読みたかったのになぁ、なんて思っていたんですけど、それは事実は小説よりも奇なりってのがこのノンフィクションのテーマだったのかもしれないですね。
以前「将棋の子」でも書きましたが、大崎善生はノンフィクションを書いていてもフィクションのように感じてしまいますね。彼にとってそれはいいことなんでしょうか、悪いことなんでしょうか。
今回のノンフィクションの題材は「聖の青春」や「将棋の子」と違って、若いカップルの心中事件です。ある日、ふとみかけた新聞のベタ記事から始まるのですけど、一つずつ糸で繋がっているかのように大崎善生のところにやってきます。
ウィーンで死んだ33歳の指揮者と19歳の女の子。どうして二人は死ななければならなかったのか。19歳の女の子、日実(かみ)は19歳にしてはむごたらしいぐらいにまわりに振り回されてしまいます。同級生の死、母親の性格や、父親の行動、恋人の言動。悲しいぐらいにすべてが日実の人生を終わりへと導いていきます。
しかし、ここに書かれていることは、大崎善生も言っているように、書き手にとっての事実でしかないのかもしれません。誰がどうやって伝えたとしても、それはその人にとっての事実でしかないのかもしれない。でも、僕らはそれを受け入れて、取捨選択して自分にとっての事実を構築していなかければならないんですよね。
大崎善生はこの事件を作品にしようと思ったときに、こう考えます。
書いてみたい、そう思った瞬間にノンフィクション作家は何らかの責任を負うことになる。書いてみたいという衝動を、一過性の衝動に終わらせずに最後の一行まで書き上げることができるかという自分自身への責任。もし書く行為によって何人かの人間や、それにまつわる色々なことが動き出したときに、それらのすべてに対して、自分なりの責任をまっとうできるかという疑問。
こういう事件に関する作品を読んだときに、読み手は勝手な想像をするかもしれない。勝手にあれこれいうかもしれない。誰が悪くて、誰がよかったとか。そんなことにまで責任をとらなければならないと考える大崎善生の態度にすばらしいものを感じた。そういう人が書くからこそ、読み手も自分で事実を構築するという責任を果たせるのかもしれないと感じました。
この痛ましい事件のときに彼はヨーロッパを旅し、アジアンタムの鉢植えを手に入れています。そうやって「アジアンタムブルー」が生まれたのかしらと思うと、日実があの素敵な作品の後ろに流れる冷めた感じを生み出していたのかもしれませんね。






